色んな感情の根本にあるのは、たぶん「投影感」の有無なんだと思う
タイトルに書きたいことをすべて要約してしまった。
久々に声優という自分のライフワークのようなものについて語るのに、こんな長ったらしいタイトルを付けてしまった。なんだか恥ずかしい。
さて、ここから先を読む人にわかって欲しいのは私は全肯定型のファンではないということだ。私には私の感想がある。好みがある。そして苦手なものがある。
それを踏まえてここから読み進めるなり、途中でやめるなり自由にして欲しいと思っている。
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昨年クリスマスに発売された神谷浩史さんのミニアルバム《CUE》のMVを見た私の感想はこのタイトル通り。
ああ、私が神谷さんの歌に無意識のうちに求めてしまってきたのは投影感なんだろうな、と確信した瞬間だった。
神谷さんの新しいミニアルバムは所属レーベルKiramuneのメンバーたちの楽曲をロック調にアレンジした《ハレロク》以来のカバー作品集だった。Kiramuneはレーベル設立時からファンだし、知らない曲はないくらい私はKiramune所属のメンバー全員が大好きだ。それぞれのソロライブも欠かさず参加していたし、ここの歴史で自分が知らないものはないのではないかと思う。ここまでくると人によっては古参ゆえの面倒臭さい愛のように感じるだろう(否定はできない)。
神谷さんのカバー企画はずっと願っていたものだったし、今回の《Cue》ではもう1人応援している吉野裕行さんの歌をカバーすると知っていたので期待は大きく膨らんだ。
発売日はクリスマス。
届いたCDのパッケージ。
選びに選び抜いた特典のブロマイドの笑顔が眩しい。
クリスマスにプレゼントを貰うことも少なくなってしまったので、封入メッセージカードの「メリークリスマス」の文字にワクワクした。まるで神谷さん=私のサンタさんだ。緩む口元をだらしなくにゃぁーっとさせながらデッキに円盤をセットした。
そして。
MVを見て心が無になった。
見終えた私の中に残ったのは怒りでも、苛立ちでも、不快感でもない。そんな感情の起伏はまったくない。
ただ静かに水平に走る線のように「無」。
元々私は感情の波に乗ることはない。その勢いに任せて呟くこともあまりない。真っ先に思考を支配するのは、なんでこんな感情になったんだろうという分析なのだ。これはもう癖のようなもの。
なので今回もこの「無」はどこから来るのか考えてみた。
① Glorious Timeの歌詞の変更
今回MV(リード曲)になったのは《ハレヨン》で神谷さんが新たな扉を開いたと言われている代表曲のひとつ【Glorious Time】のセルフカバーだった。
イントロからピアノの旋律がとても軽やかで美しいこの曲。人気の理由のひとつは歌詞を通して神谷さんがこれまで(発売のタイミングでは5周年)の歌活動について語っているようなところだと思う。歌活動を通して得たものが、神谷さんにとって大切なものだとはじめてストレートに伝えてくれた気がした。私自身、この曲を聴きながら歌活動5年目にして伝えてくれたこのメッセージに心を踊らせたのを覚えている。
ただ今回、その歌詞が変更された。
ラストのコーラス
Now or never
Precious moment
Keep on smiling
Glorious Time
ライブの中でこの部分をみんなで歌うのが大好きだ。
ただ今回はこうなっていた。
Now or never
Always here for you
We'll keep on smiling
Glorious Time
自分は英語の通訳翻訳家という点から言葉について話すのであれば、そもそも音と英語の語呂がハマらない気がしている。
さらに気になった点:新しくなった歌詞の「We」は誰を指しているのだろう?
私はこう考えてた。
このアルバムは神谷さんの10周年を記念するもの。もしかしたらこの「We」は今、神谷さんの横にいるKiramuneのメンバーたちのことなのかもしれない、そう私は感じたのだった。だとしたらなんて暖かい曲なのだろう。
そんな温かさに包まれたのも束の間。
そのイメージをMVが打ち砕いたのだった。
② エキストラ参加型というMVの作り
この作品の大きなポイントとも言えるのがKiramuneのファンクラブでエキストラ参加を募集したことだ。これは大きな賛否を呼んでいるし、その理由は私にも理解出来る。ファンという同じラインに立っているはずの者同士が「参加できた人」「参加できなかった人」に別れるのだ。同じ感情でいることの方が私は難しいと思うし、このエキストラという試みのリスクでもあると思う。
まずはじめに明言する。
私はこれに参加出来ていない。
ただ見た後に残った感情が嫉妬心かと言えばそれも違う気がする。先程も書いたように「無」になったのだ。いつもなら神谷さんが可愛いだの、あの仕草が最高だの、ひとしきり騒いでいるのに。今回はそれがなかった。
特筆すべきことがない。
何故ならばその画面の作りとして、今回のGlorious Timeから突きつけられたのは「そこに私は含まれていない」という寂しさに満ちた疎外感だったからだ。
疎外感の原因はいくつかある。
①で話した歌詞の変更もそのひとつだ。これまで神谷さんからファンへというメッセージが、急に変わった。そこへの戸惑いは正直、ある。そして言葉だけなら聞き流せていたものが、MVという強烈な視覚情報として入ってきたからこの気持ちに拍車をかけたのだと思う。
MVのつくりにも要因があるような気がする。
③ MVの構成
このMVでは《ハレヨン》を彷彿させる真っ白なスタジオに白い衣装を着た神谷さんがそこにいるだけというシンプルさを極めたものだ。たしか川谷監督はこれを「浩史100%」と言っていた。
イントロから《ハレヨン》のときと重なるようなポージングで優しく微笑む姿。冬に発売という事でやわらいニットセーターを着ていた。その次のカット。画面に写ったのは学校の合唱コンクールのときのようにズラリと並んだエキストラとその真ん中で歌う神谷さんの姿だった。
急に何も意識せず音源の中で聞いていたコーラス部分が「神谷さんを応援するファンのみんな」のもの、というよりも「たった今画面の中にいる人達のとの」という印象が強烈に残った。
投影感とは画面の中にどれだけ自分の気持ちをのっけることが出来るかという意味で私は使っている。神谷さんの気持ちにのっかるわけではないので、共感ではない。あくまで気持ちの真ん中にいるのは自分なので「投影感」と呼んでいる。
話を戻そう。
その後は追い打ちをかけるように、5人程度のグループショットが間奏パートでパパっと流れた。これははっきりと顔を認識できるレベルだった。
ここで私は気持ちをこの曲にのせることは厳しい、すくなくともこのMVでは厳しいと感じた。
突きつけられたような気がしたのだ。
この声は私の声ではないという事を。
そして同時に引っかかっていた「We」は不特定多数の「私たち」ではなく、あの画面の中で完結した「神谷さんと参加した私たち」なのではないかと感じてしまったのだった。
歌が苦手だと語っていた神谷さん。そんな中でもライブを通して伝えたいことができた。それを歌にしたと何度も雑誌で語っていた。
ただセルフカバーverのMVではこの曲で神谷さんは何を伝えたいのか、私は急に分からなくなってしまった。
そして何も感じなくなったのだ。
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画面が作り出すインパクトは想像以上に大きい。
先程書いた通り合唱のシーンだけでなく、個別認識できるカットがあり、「そこにいる人」と「そこにいない人」を見せつけられたため、無意識のうちにボーダーを心が引いてしまっていた。
同じようなエキストラ参加型といえば以前CONNECTや吉野裕行さんがやったことがある。どちらもセッティングがライブ会場の様子だった。もちろんファンの映像もあったがメインにあるのは歌い手であり、楽曲だった。だからこそ私は自分の姿をそこに投影できたようなきがしたのだと思う。この2つのMVは大好きである。
こうやって考えていくうちに自分が求めているものに気づいた。
ほかの人たちはどう思っているのか、気になるところではあるが、こういう話題は私がコントロールできるブログでするのがベストなのかもしれない。
※ここまでだいぶ好き勝手書いたけれどあくまでこれはMVの話。映像無しだと実は何も気にならないんです。